閉所恐怖症

メンタルカウンセラーとしてのお仕事もさせて頂いてますが、つい先日は「閉所恐怖症」の方からのご相談をお受けしました。

 

「周りに理解してもらえない。辛い。」

 

実は私も3歳から27歳まで閉所恐怖症に悩まされました。

 

3歳の時、妹が生まれるために遠い田舎の家に一時預かってもらってました。

あまり親しくない親戚だったので、こうしたい・ああしたいという気持ちも伝えられず・・・。

家も田舎なので広い・・・暗い場所も多い。

 

そんな時に、暗い家の離れの狭い建物の中に間違って入ってしまい

出れなくなりました。真っ暗な狭い狭い空間。身動きすら取れない。

 

そこの家の方はいろいろな場所に出かけたりされてたのでその時はそこに一人。

 

ガチャとしまった扉は開かない。夏だったので暑い・・・声を出しても誰が来ることもない。

3歳の私にとっては大きな恐怖でした。

 

家に帰りたい

お母さんに会いたい

ここから出たい

どうしよう

寂しい

 

なにより息苦しい・・・。息が出来ない感覚が何度となく襲ってくる。

これが何より辛かった。

 

そこから何時間経過したか・・・

 

家の方が帰ってきた気配がしたのでなんども扉を叩く。

気づかない・・・。

 

あけて!あけて!!!と叫ぶ。

 

何回か繰り返してやっと気付いてくれた。

 

その後・・・怒られた・・・。

 

心配の怒りじゃなく

めんどくさい、いらんことをするな!の怒りだったのは子供ながらに理解できました。

 

ごめんなさい・・・。と謝るしかなかったので何度もごめんなさい、ごめんなさいと言ってましたね~。

 

その出来事があってから、暗い所に入るとあの息苦しさが蘇ってきてどうしようもなく、一時はエレベーターも怖くて乗れず

階段を何段も上がっていたのを覚えています。

 

「あたし階段で行くから競争な!」そんな風に自分なりに遊びに変えたり。

 

 

ただね~危険なのはわけわからん子供時代。その時はいろいろ大変でした。

転勤族だった我が家はしょっちゅう転校。

 

昔は転校生って少ない時代だったのでその子のキャラがどうこう関係なく注目される。

関西から関東に」転校した時には今みたいに方言がかわいいとか言われる時代じゃなかったので

 

「変」「おかしい」が当たり前。

 

そこから起きた出来事。昔は(今もなのかな?)掃除の際に机を一斉に後ろに下げて

ほうきではきながら机を前に戻していくやり方をしていて、その机を下げる前のロッカーからほうきをとる時に

教室担当だった私はほかの3人の」メンバーにロッカーに閉じ込められ開かないように机を前に置かれて出れなくされました。

あの時はほんまに怖かったし狭いし息できないしで死ぬかと思いました。

ガンガン足で蹴とばしてなんとかあいたから良かったけど。

 

私をわかってほしい・・・はああいう時期のほうが必要かもしれませんね。

小学校。中学校時代にはある意味、教育の中にそういうのをかかえてるこもいるかもしれないから、こういうことはあかんよと

教えていくことは必要なのかもしれませんね。

 

私の場合は腹が立ちすぎて

その後、そいつらをどうしてやろうかという事に意識が向いて、

その中のメインに別のやり方でやり返しました

そこからは一切いやなことはされなくなりました。

昔はこんなんされた~とか親に言うと心配かけるから言わずに自分で解決するのが普通でした。

 

ある程度の年齢になったときは

 

こんな事もありました・・・。

 

学生時代、ダイビング仲間でよくキャンプに行っていました。

 

テントには必ず窓がないと無理。

テントの窓は大概ジッパーを開けると網目状の窓がある。

 

夜中は冷えることが多いので一緒のテントにいた友人がジッパーを閉めていて、

夜中にふと目を覚ましてしまった私は真っ暗にいる自分を知り、呼吸が出来なくなって叫んでしまったことがある。

 

友人が「大丈夫か!?」

 

「ジッパー下げてほしい」

 

すぐにジッパーを下げて外が見えた。その瞬間に息苦しさはおさまる。

 

そう、この事からもこういう病は自分ではどうしようもない不可抗力の中で心的要因が大きく関連していることがわかる。

「記憶」「経験」・・・この結果。

 

結局はこれを上回る出来事がない限りどうすることも出来ない。

 

車の運転は好きだったがなんせ「トンネル」がダメだった。

どこかへ行くときはトンネルのないルートを行く。

友人や他の方が運転してくれる時にはトンネルの時は目を瞑る。

そんな日々が何年も続いた。

 

そんな私がそれを克服することになったきっかけは・・・「息子の存在」だった。

結婚して子供が生まれて母になった私。

 

主人はのん兵衛でいつも夜はいなかった。

 

そんな時、まだ赤ん坊だった息子が夜中に異様に激しい泣き方をした。

おむつが気持ち悪いのかな?・・・違う。

あやしても、おっぱいをあげても、そのひどい泣き方は一向に収まる気配がない。

 

何なんなん?どっか痛い聞いても赤ん坊。答えられるわけもない。

 

主人に電話・・・

「おかけになった電話は電源が入っていないか電波の届かない場所にあるか・・・」

 

あー!!!!!!!!!どうしたらいい!!!???

 

その日の夜間当直病院に電話する。看護師の方から医師に繋いでくれた。

「もしかしたら腸重積の可能性があるかもしれません。すぐに連れてきてください!!」

 

「わかりました!」

 

泣き叫ぶ息子を車に乗せて

「大丈夫やからね!お母さんが付いてるからね!」

と気もそぞろになりながら声をかけ続けながらの運転。

 

無事に病院についた・・・。

 

「大丈夫ですよ。腸重積ではないようです。ただ原因はわからないのですが、このぷくぷくの小さな手から、

今血液をとるのは疲れてしまうから、また明日の朝改めて来ていただけますか?とりあえず、お母さん大丈夫ですよ。

今すぐにどうこうというのは無いですからね。」

 

ほっとした・・・。。。

 

その時に「え・・・あたしトンネルが2か所もある場所通ってこれたやん。」

 

そう、この出来事が私が20年以上付き合ってきた「閉所恐怖症」とお別れするきっかけとなった。

 

守るべき存在があること。そして通れた自信は私にとってとてつもなく大きく、

そしてここを通ると何かあっても子供を助けてもらえる病院がある。という事実が私を克服させてくれたんだと思う。

 

だから、私はたまたま克服するきっかけがたまたまあっただけで、もしああいうことがなければ今も付き合っていると思う。

ただ、私は何十年と付き合っている間悲観的になることはやめていた。

 

仕方ない

 

そう思っていた。自分の意志でなったものではないことを、自分の意志で治すことはなかなか難しい。

それを誰かにわかってほしいと思ったこともなかった。

 

その都度その都度、

 

「ごめん~暗いとことか狭いとこにがてやからな。

トンネル苦手やねん~抜けたら教えて~」と伝えるようにしていた。

 

テントで叫んだときはびっくりさせてしまったので、さすがにめっちゃ謝りました。笑。

友人もそんなん全然ええよ~って言ってくれてました。

 

私は自分の中にその事実があるのなら、そのまんまその都度伝えたらいいと思っています。

 

それは閉所恐怖症だけにかかわらず、苦手なもの・できないことがあれば

そんまんま素直に

 

「あ~!ごめーん、これ無理やねん~」でいいと思います。

 

人間完璧な人なんていません。

 

私は平気で無意識に人を傷つけていることに気付きもしていない人のほうがよほど大丈夫かと思っています。笑。

 

人間「聖人君主」じゃないです。

 

色んな面をあわせて一人の人がいます。

 

今が65点なら、いろんな面を合わせながら人として成長していけるように点数をあげれるように日々を過ごす。

それでいいと思っています。

 

そういう不可抗力で起きた心の記憶は自分自身が受け止めてあげる。

そして自分の大切にしたい人だけに「私、こういうところがあるねん~」って伝えればいいと思います。

そこに「私を理解して」は必要なくて、その都度その都度伝えていけばいい。それでいいと思います。

 

長くなりましたが・・・これが私の今回の「閉所恐怖症」におけるカウンセリングです。

 

人それぞれ皆さん色んな事を抱えて生きてはるんだと思います。

表立って言っていないだけで・・・。

みんなが私をわかって!となると」なかなかに人との付き合いは難しくなってしまうので。

その都度その都度、必要であれば色々と考えすぎず事実を伝える・・。

そのほうが、なんとなく貴重な時間を大切にできているような・・・そんな気がします。